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院長の自分史

院長の自分史1964年4月22日、東京の小岩町に生まれる。父は中野で耳鼻咽喉科開業医を、母は、小岩の実家で洋裁教室を開業していた。

当時の関取、若秩父のように太っていたので若ミルクと親から言われていた。

一年後、妹の智月誕生、幼少時代は、一緒によく遊んでいた。
【0歳 母親に抱かれて】

院長の自分史1971年4月、下小岩小学校入学。幼稚園時代から現在のスリムな体型となり、背も整列するといつも後ろのほうにいた。一年生より書道教室に通い、中学まで続き、書道5段となる。他にも水泳、野球など運動の大好きな少年時代を過ごす。ただ、勉強をした覚えはまったくなく、成績も下から数えたほうが早かった。

小学校5年の頃、図書係となったが、図書館の本の整理を怠り、いじめにあう。自分のわがままからのいじめであり、反省をする。
【小学校時代 写真館にて】

院長の自分史1977年4月、小岩第五中学校入学、最初、軟式庭球部に所属し、キャプテンに選ばれたが、どういうわけかしり込みしてしまい、退部してしまう。
【中学校時代の友達と】

中学2年の頃に、再び自分のわがままからいじめにあう。
この頃、よく聴いたレコードは、ビートルズとクラシックであった。クラシックコンサートには、よく友人といき、特にカラヤンは、印象深い。合唱部にも所属し、コンサートにも参加。

院長の自分史1980年4月、東京都立本所高等学校入学、ここではバスケットボール部に入部。本当は硬式テニス部に入りたかったのだが、この学校にはなく、親の勧めでバスケットをすることになった。
【高校時代、バスケット部の夏合宿にて】

実際やってみると、練習もハードでいっこうにうまくならず、合宿では、脱水状態に陥ってしまう経験をする。3年になってようやくうまくなった矢先、同級生が受験という名目で止めていき、自分も自動的に退部する。

高校3年の頃、一時期、不良化するもなりきれずに卒業を迎える。
幼少の頃より、医者であった父親に(よっちゃんは、将来、医者になりなさい。)といわれ続けられていたが、医者になるほどの学力もなく、受験をせずに、そのまま予備校通いとなる。

院長の自分史2年間の予備校生活の後、1985年4月、鶴見大学歯学部に入学。
念願の硬式テニス部に入部し、テニスに明け暮れる6年間を過ごす。勉強もようやく本腰を入れ、充実した学生時代となる。大学時代には、クラス委員とテニス部では会計を、6年生の時には国家試験対策委員会計監査として活躍する。
【テニス大会にて】

テニス部では、5年生のときにようやく正レギュラーとなったが、試合には負けることが多かった。特に印象深かったのは、夏の歯学体の団体戦で僕に勝敗が掛かったときに一回戦では奇跡的に勝利することができたが、2回戦目でも僕に勝敗が掛かり、そのときはあっけなく負けてしまった。

その悔しさから、ベンチで泣いてしまい、それを見た先輩や同輩達が一緒に泣いてくれたことが今でも忘れられない。

卒業試験では、一次試験に落ちてしまい、一念発起して1ヶ月で30点近く全科目の点数を上げ、二次試験で合格した。生化学の教授から(これほど点数をあげた者は学年で君しかいない。)とお褒めの言葉をいただいた。

この勢いで、国家試験も合格し、晴れて歯科医師となる。

1991年4月、鶴見大学歯学部保存学教室入局。この科の教授が父と大学時代、同期だったためお世話になるが、研究発表の約束を果たすことなく2年間の研修を終えてしまい、今も心残りとなっている。

1993年、両国の結婚相談所へ行き、運命の人、悦子と出会う。当時彼女は24歳、僕は29歳で出会ったときから気が合い、交際することに。

院長の自分史茨城の日立で生まれ育った彼女は、美人でありながら茨城弁というギャップがとても魅力的であった。

1年間の交際後、結婚。東京は葛飾区のお花茶屋のマンションを父との共有名義にて購入。
【悦子との新婚旅行にて】

院長の自分史1996年4月、医療法人健和会 マリン歯科クリニック勤務、分院長就任。

院長の平嶋先生には、予防の価値観やインプラントを教えていただき、今でも相談に乗っていただけるメンターの1人である。
【平嶋先生と】

1997年2月14日、悠太朗誕生。医局で日立の病院から誕生の一報を聞いたとき、とてもうれしかったことを覚えている。

院長の自分史22歳の頃より神経症でカウンセリングに通っていた悦子は、薬を常用しており、悠太朗には、母乳による影響を懸念して、粉ミルクで育てることとなる。
【悠太朗0歳のとき】

院長の自分史当時は、愛車ミニクーパーに乗っていたが、ある日車で、3人でディズニーランドに向かう途中、当時3歳の悠太朗がもどしてしまい、悦子が大きな声を上げたばかりに僕が後ろを振り返ったとたん、前のトラックに衝突。変わり果てた車になりながらもディズニーランドへ向かう。

ディズニーランドは、結婚前、結婚後と何度も遊びに行った思い出の場所。
【悠太朗3歳のときディズニーランドにて】

1998年11月、大学内のテニスのダブルストーナメントで優勝、シングルスでも草トーナメントでいい成績を残せるようになる。学生時代よりレベルアップしたことを実感する。

院長の自分史2001年5月、幕張ドルフィン歯科クリニック開業。開業後の2年間は、とても苦しく半年ごとにスタッフが辞めていき、赤字経営が続き、2代目となる車のBMW3を売却。
それでも暖かい家族に支えられて前に進む。
【幕張ドルフィン歯科開業、宮尾すすむ氏と】

院長の自分史2005年5月、東京ヘルスケアグループ入会
すでに予防歯科を構築している仲間と勉強をしていくなかで、自分の医院も徐々に予防歯科らしくなってきたことを実感する。
【東京ヘルスケアグループの仲間と】

院長の自分史2005年12月12日、父死亡。享年74歳。2年前に心臓病の手術をしたが、退院後、楽天的な父は、安静しなくてはならない時期に旅行などへ行き、ある日自分の医院内で術後の傷より大出血、そのまま帰らぬ人となった。
【生前の父親と】

父は、僕の学費やお花茶屋のマンションローン返済のための借金を銀行から繰り返し、自分の医院も荒果てた状態で最後を遂げてしまった。

僕は、そんな父親を情けなく感じるが、それ以上に感謝もしている。僕を医学の道へ導いてくれたことと、一度思い立ったら一歩も引かない情熱は父親譲りである。

2006年3月29日、悦子死亡。享年37歳。以前より神経症であった彼女は、お花茶屋のマンションで上の階の方の悪口が聞こえると訴えていたが、神経科の主治医からは、(奥さんと結婚したことは、運命と思ってあきらめなさい)とまで言われていた。

そのことから逃げるように2005年6月に千葉の大久保へ引っ越し、これからというときにあることがきっかけで、悦子は自らの命を絶ってしまった。

同時期に4年間、働いていただいた唯一の歯科衛生士も退職され、これからという時に、大きな痛手を受けることとなった。

同年4月には、待望のメインテナンスルームが完成したが、最愛の妻や歯科衛生士のいない現実に僕は、毎日涙を堪えながら診療をしていた。しかし、6月になると待望の歯科衛生士が同時期に2名も入り、ようやく予防歯科の体制が整った。

大きなものを失うと同時に大きなものを得ることができる、これが人生なのかと感じ得ずにはいられなかった。

院長の自分史同年7月ジェームス、スキナーの成功の9ステップセミナー初参加
連続4日間の自己啓発セミナーに参加したことによって多くの学び、感謝、感動、心友を得ることができた。この経験は、僕にとって何事にも変えられない財産となった。
【メガイベントのジェームススキナー氏と】

2006年12月~2007年4月
日本メンタルヘルス協会のカウンセリング基礎コース受講
衛藤信之先生の人柄に惚れて、受講を決断したが、心理学を学べば学ぶほど心の問題ほど重要なことはないと気付く。他人と過去は変えられない、変えることができるのは自分と未来だけ。

この言葉は、僕にとってとても意味のある言葉となっている。

2007年5月成功の9ステップセミナー再受講
成功と幸せは、同じではなく、いくら物質的に豊かになろうとも、それ自体は重要なことではなく、いかに心の底から幸せを感じられるかが大切なことと気付く。

2007年6月レイキヒーリングセミナー受講
これは、日本発祥の代替医療で大正時代に手当て療法といわれていたが、国外で最もポピュラーなもの。今後、レイキヒーラーとして、人の役に立てればと考えている。

2007年7月道幸武久氏の加速成功実践塾受講
去年の7月の9ステップセミナーに参加されていた方に再会し、だいぶ変わったと言われた。その方は、世界第8位の空手家で、事業でも成功されていることを初めて知った。

2007年9月ジェームス、スキナーのメガイベント参加
連続8日間のセミナーで平均睡眠時間3時間という過酷なものだった。グループ制のなかで、過酷な演習を勝ち取り、成功体験をしていくなかで、与えることの大切さを学んだ。

世界各国のビッグネームを外部講師としたこのセミナーで学び、自分自身をさらに成長させていった。

院長の自分史同年、10月日本メンタルヘルス協会修了書授与
まだ、自分がこの修了書をいただけるほど、人に対して与えているとは思っていない。しかし、この一度しかない人生を人のために尽くそうと今心から感じている。
【日本メンタルヘルス協会修了式の衛藤氏と】

幼少時代から今に至るまで、多くの挫折や困難、小さな成功体験を繰り返す中で、一生に一度しかないこのかけがえのない日々を生かされていることに大変感謝している。

決して1人では生きてはいけないことを事あるごとに実感してきた。

人生は出会いと別れでできていることは、どこかで聞いたことがあるが、これほどまでに別れがつらく悲しく、その反面出会いは、本当にすばらしいものなのか。

これから残りの人生も、息子やドルフィンスタッフそして多くのセミナーで知り合った心友とともに歩んでいくが、どんな困難や挫折をもすべて、受け入れていきたい。

生れ落ちたときから死へと向かっていくなかで、今この瞬間生かされていることに感謝し、魂を向上させていくことこそが人生の目的であることを悟ったのだ。

私の人生の目的は
愛する人たちと永続性のある予防歯科を築くことである。

2006年の春、最愛の妻悦子を失った失意からようやく立ち直った僕は、自分自身の人生について深く考えるようになった。しかし、多くの書籍を読み、自己啓発セミナーに参加しても心の奥底に、ぽっかりと穴が空いた状態は続いていた。

また、人を好きになれるだろうか?

そんな疑問を抱きながらも、1年後の悦子の命日に毎日流した涙の質が変わったような気がした。それ以来、僕は再婚を意識し、行動に移していった。一人息子の悠太朗やこれからの自分の人生のために。

だが、子持ちで前妻が自殺という形で死別した男と結婚しようという女性に出会うことは、難しかった。時には、ロシアの女性とお見合いしたこともあったが、あっさりと振られてしまった。

2009年の春、ある再婚サイトから気になる女性とお会いすることとなった。彼女は、中国籍で日本人の旦那様と死別されていた。それも僕の妻と同時期に闘病の末、病死された。彼女も失意を感じていて、うつ状態にもなったと聞いた。九州から神奈川県の介護施設に職場を変えて、認知症の老人相手に一生懸命に働いているとのことだった。

院長の自分史過去に最愛の人を亡くすという同じ悲しみを抱えている彼女に僕は、心が惹かれていった。僕は、彼女(慧麗)との結婚を決意し、お正月には母に紹介した。

2010年の夏、2人だけのフォトウェデイングを挙げた。その年の秋、慧麗が妊娠した。当初、切迫流産の危機もあったが、何とか乗り切り、安定期へと入っていった。
【慧麗とのフォトウェデイング】

2011年3月11日、東日本大震災が発生。当医院も地盤が液状化し、建物自体が傾斜し、今後の診療が不可能となってしまった。震災当日は、東京の自宅まで自転車で2時間かけて帰った。多くの方々がそうであったように、僕も家族の安否が気になった。

もう、家族を失いたくない。ただ、その思いだけであった。慧麗や悠太朗の無事を確認し、母の安否を気にして実家にも駆けつけた。母も無事であった。報道では、津波で多くの人が命を失ったこと、家族を失い、一人きりになった人の映像が流されていた。

とても悲しくなり、慧麗の不安をよそに家にあったミネラルウォーターをすべて支援物資として送ってしまった。ドルフィン歯科は、なくなってしまったが家族やスタッフが無事であったことに感謝した。

しかし、東北の方々のことを思うと、その悲しみを少なからず理解しているだけにいつも胸が痛む。

5月23日、午後2時30分、慧人(けいと)誕生。
震災時、お腹の中で驚いた慧人は、逆子の状態となりそのまま戻らず帝王切開で出産。このような大変な時期に生まれてくる命に僕は、ただ感謝した。

震災と同時期に移転を決意し、多くの方々のご協力をいただき、7月にリニューアルオープンさせていただいた。人は決して一人では生きてはいけない。仏陀は、このことを因縁生起という言葉で伝えた。

悠太朗は、現在中学3年生、卓球部のキャプテンとして活躍している。慧麗は、40歳という高齢で出産し、現在育児に奮闘中。母は、齢80であるが、毎日自転車での買い物やお茶のお稽古を楽しんでいる。

僕も家族やスタッフとともに復活したドルフィン歯科で第二の人生を歩んでいきたい。最後に東日本大震災で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。
2011.6.30


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